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水戸藩といえば、黄門様とこの9代藩主の斉昭公ですね!最後の徳川幕府の将軍慶喜の父であり、この殿様がいなければ後期水戸学は生まれず、明治維新は起きなかったかもしれませんね。明治維新て、吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、大久保利通、武市半平太、坂本龍馬等々下級武士出身で若かった尊王攘夷の志士たちの活躍で語られますが、農民、町人の他、殿様の活躍もあったと思います。斉昭公の他に、長州藩の毛利敬親(13代藩主1819-1871)、土佐藩の山内容堂(15代藩主1827-1872)、薩摩藩の島津斉彬(1809-1858)・久光(1817-1887)、佐賀藩の鍋島直正(なおまさ・1814-1871)等です。いずれも開明的で幕末にあって改革を断行し維新の志士を育てた側面があります。

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肖像画のイメージと写真でのイメージずいぶん違いますね。この斉昭公は、(続く)

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# by araeshuzo | 2017-11-15 19:30 | 歴史・哲学

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水戸9代藩主徳川斉昭の第7子七郎麿(しちろうまろ)、後の慶喜の幼き頃の肖像画です。家康以来の俊才と言われ幕政改革により幕府を守ろうと努力しましたが、引っ込んでしまいます。それは日本の行く末を考えての彼の深慮だったのではないかと思います。母親は皇族で、水戸学を弘道館で学びましたから朝敵には絶対なりたくなかったのでしょうね。フランス公使ロッシュにそそのかされて再起を促されますが、拒否。これが日本を植民地化から守った一つの大きな要素だったと思います。薩長と戦っていたら、日本は大混乱、英仏露米の餌食になっていたでしょう。有色人種の国で唯一独立を保った日本。その特殊性の一つは、天皇のもとに一丸となる国だと思います。それを促した水戸学の黄門様(1700年没)の後を見てみましょう。

黄門様が薨去して、100年後、藤田幽谷(1774-1826)という人物が水戸に現れます。水戸城下の古着屋の倅でしたが、勉学に励み18歳で士分に取り立てられ、郡奉行ついには彰考館総裁にまでなります。幕府の老中の目にも止まりますが、出世に目もくれず自分の信念を絶対に曲げぬお人だったようで、老中相手に言いたいことを言い、結局幕臣にはなれなかったようです。「大日本史」の編纂方式を巡っては、恩師である立原翠軒と対立、藩政改革では急進的意見を述べて謹慎処分を受けています。9代藩主斉昭が登場する前のことですが、1868年の弘道館戦争の根はもうこの頃から生えていたのかもしれません。1824年、水戸藩の常陸大津浜にイギリス人が上陸。息子の東湖に殺して来いと命じます。翌年、1825年に幕府から異国船打ち払い令が出されます。幽谷は尊王攘夷を主張します。

この方が登場するまでは、水戸の学風(明治から水戸学と呼ばれるようになりました)は、尊王だけだったのですが、攘夷(外国人を追い払う)が加わります。19世紀の初めから外国船が日本に現れ、警戒を強める時代だったですから当然だったでしょう。1840年に起きたアヘン戦争の情報も入って来ますから、日本国中外国船に怯えるようになります。特に、長州、佐賀、薩摩の海に面した藩では。

幽谷は「正名論」や「勧農惑問かんのうわくもん」を著し、後期水戸学にバトンを渡します。1826年没。(続く)



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# by araeshuzo | 2017-11-13 18:12 | 歴史・哲学

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御馴染みの助さん格さんと一緒の黄門様の旅姿です。水戸駅前に銅像があり、水戸市はどこもかしこも黄門様。黄門様祭りというのもやっています。
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こちらは、黄門様の肖像画です。テレビの黄門様とは、イメージ違いますね。どこか憂いを秘めている感じがしませんか?絵の下の説明書きも読んでください。名目では水戸藩30万石(同じく御三家の尾張藩、紀州藩はそれぞれ50万石)は実質20万石の貧乏藩でまともな天守閣も建てられず、移封された前藩主佐竹氏が残した城門とかそのまま使ったそうです。若いころはグレテイタ黄門様ですが、史記を読んだのがきっかけで(一休さん、義経も子供の頃グレテイタそうです。)更生し、水戸の領民のために善政を行い豊かな水戸藩を作りました。

黄門様のことで特筆すべきは、歴史の大編纂事業を行い、水戸学の礎を築いたことです。歴史書に救われた黄門様ですから、歴史研究の重要性を痛感し、日本書紀以来正史が日本にないことを憂い、神話の時代からの歴史書を編纂することにしたのです。しっかりした正しい歴史を知らなければ国は滅ぶと。これ、現代の私たち身を抓まれますね。私を含め、戦後生まれの人たちは東京裁判史観に振り回されてきましたからね。幕末明治維新の勉強をしていると現代と重なる部分あり、考えさせられます。

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歴史の編纂場所が「彰考館しょうこかん」です。水戸と江戸両方にあった時代もあります。中国では正史とは、滅ぼした王朝が自分を正当化するために書くそうですが、日本の場合、万世一系の王朝ですからその必要ありません。黄門様は多額の費用と労力を費やし、全国に研究員を派遣し資料を集め、助さん格さんとともに議論して事実を重んじて編纂しています。徳川全盛期、万々歳の時期にあって、幕府も顔をしかめるような迷惑なことも書いています。石田三成は忠臣だったとか、足利尊氏は逆賊で南朝が正統であるとか神功皇后は皇后であって、天皇ではないとか、大友皇子は一度即位したのだから歴代天皇として記すべきだとか、ずいぶん骨頂精神に富んだ勇気のある人だったようですね。

おじいさんの徳川家康が神君として全国の東照宮に祀られ、京都にいる天皇よりも尊ばれる時代にあって、「それは違う!将軍は飽くまでも天皇の臣下であって、尊王の精神こそ大義で、名分を正すべき。」というのが、黄門様の大日本史です。この編纂事業は黄門様の時代だけでは終わらず、明治39年まで続きました。歴代水戸藩主はそのためお金を使い、江戸屋敷や水戸城は質素というより、ボロだったそうです。

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その血を引いた最後の将軍、慶喜。明治になってからも駿河で隠居生活をし、明治30年に参内を許され、明治天皇に「ご苦労だったね。お前が大人しくしていてくれて、日本は救われた。」と言われたそうです。
(続く)

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# by araeshuzo | 2017-11-12 00:34 | 歴史・哲学

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弘道館の講堂内部にある至善堂です。15代将軍徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いの後、上野の寛永寺を経て、母校、弘道館のこの部屋で蟄居生活を送りました。心情、察して余りあると思います。幕末明治維新の動乱が最小限にとどまったのも慶喜が我を張らず、弘道館の教えである尊王を守ったからでしょう。慶喜は9代水戸藩主徳川斉昭の7男で、先祖は家康の孫、2代水戸藩主徳川光圀(水戸黄門)です。慶喜がこういう運命を辿ったのも、黄門様が始めた偉大な事業にルーツがあるようです。


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至善堂の床の間にある「要石歌碑」の拓本です。元の石碑は弘道館の外にあったと思います。水戸学・弘道館の教えの「要」となる歌ですね。

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水戸学の始まりはこれです。吉田松陰などの幕末の思想家に影響を与え、明治維新の源となり、明治国家を作り出した歴史書です。(続く)

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# by araeshuzo | 2017-11-10 17:40 | 歴史・哲学

つい最近まで、水戸学とか天狗党とか名前は聞いたことあっても、どんなことかとか全く知りませんでした。諸生党とかは全く聞いたことなく、水戸の博物館の隅の方でやっとこの言葉を知った次第です。

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弘道館の講堂です。

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私が生まれ育った足利の足利学校や、大分の咸宜園・かんぎえん(生徒が3000人もいたと言われる江戸時代の私塾)、岡山県備前市の閑谷学校・しずたに(岡山藩の池田光政による公立の庶民の学校)と並んで日本遺産となりました。今、世界遺産目指して頑張っています。

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弘道館の玄関です。ここを入ると

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「尊攘」つまりは尊王攘夷と書かれた掛け軸が目に入ります。他の学校や藩校と違うようですね。尊いが故におドロドロしい歴史を歩んだ水戸弘道館。
そもそも、どうして「尊攘」を理念に掲げるようになったのか、水戸学とは?(続く)

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# by araeshuzo | 2017-11-07 19:47 | 歴史・哲学

ここは、水戸の弘道館。
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立札に「弘道館戦争」というのが見られます。えっ!学校で戦争!!

無知な私の探索はここから始まりました。(続く)


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# by araeshuzo | 2017-11-06 19:52 | 歴史・哲学

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この穴や扉のツギハギ、現代を生きる日本人が知るべき歴史があります。(続く)
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# by araeshuzo | 2017-11-04 17:07 | 歴史・哲学

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この玄関、このドア、青春時代、今から40年以上前4年間暮らし、何度くぐったことか!慶大日吉寮、ソフト、ハードともに80年の伝統を誇り、横浜市の建築文化遺産にもなっている日本でも珍しい学生寮です。福沢先生が緒方洪庵の適塾で寮生活を経験し、大切にしてきた教育スタイルです。今、同級生たちが、寮和会(現役学生から80歳代までの同窓会)を終え、出てきました。

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宴たけなわの途中のスピーチ。ここでの青春はまさに竜宮城でした。若さ絶頂の時、多くの夢を育み、酔っぱらって前後の見境のつかないバカなこともし、「また美しく、面白く、月日の経つのも夢のうち、遊び飽きてーーーー」

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電話一本で気が付いたら、私たち新寮和会会長、副会長、会計のおじいさん!!!30年、40年ぶりに会った仲間たちは、正に白髪のおじいさんでした。私も年取りましたが!

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# by araeshuzo | 2017-10-24 03:52 | 思う所

一つ目小僧とか醜い神とか、日本の他の地域にもあるそうですが、板倉・松田の場合疱瘡神が関係しているのではないかと推測します。民俗学は考古学のように推理の世界です。

種痘が普及する前、疱瘡は死亡率20%から50%という恐ろしい伝染病でした。治っても顔に醜いあばたが残ったり、目がつぶれたりします。おそらく、この板倉や松田にもそういう病で醜女になった女の子いたでしょうね。人々はかわいそうだから「見るな、見るな」と目を背けるのが習慣になって、一種の禁忌(タブー)となっていったのかもしれません。人々の疱瘡に対する恐れが、出雲から帰った疱瘡神は醜く、一つ目というイメージを作り出したのかもしれません。

また、アラミサキと言って、この地区ではおかえり様から12日間、山仕事、畑仕事、針仕事も一切しないというしてはならない籠もりの習慣があったそうです。これも禁忌です。何故、禁忌があるのか?

おかえり様は、単に出雲から帰ったを出迎える儀礼でなく、稲を実らせてくれた田の神、作の神を山に帰らせて休ませてあげる儀礼だとする説もあります。休閑地というのがありますね。田や畑も休ませてあげないと土がやせてしまいます。田畑をこき使うことを禁じたタブーと関係しているのかもしれません。ですから、帰ってきた神様は荒ぶる神で祟りをなす。

人間、ワガママで勝手なものですから、何やっても構わないと思っている人もいるようです。科学的合理主義者とか唯物論者とか怖いですね。自然との調和、畏敬の念、感謝を忘れて人間、幸せになれないと思うのですが、いかがでしょうか?

地元の民俗をちょっと振りかえってみただけで、日本人の縄文時代から続く精神史に繋がる思いがして、大変興味が湧きました。(完)
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板倉神社から発見されたと思われる石棒と臼と思われる石。縄文時代のものだそうです。地元の人は、庚申塔といってますが、宮城県の松島の縄文遺跡博物館で同じものを見ました。そこでは、長い間、神社に男根として祀られ、金精様信仰になっていたようです。板倉でも本当は?右の石、女陰に見えませんか?少子化の現代、ありがたいものになっていくかも?


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# by araeshuzo | 2017-09-18 22:15 | 旅行記雑感

この祭りは、旧暦11月の初午の日に夜、7時から行われるそうです。板倉神社の氏子たちが、白丁を着て神輿を担ぎ、ほらを吹き、太鼓を叩き、自分の家の家紋の入った提灯を掲げ、町内を練り歩きながら賽銭を集め、町の境の大前坂というところ(山の中、かなり急な坂)で、出雲から帰った神様たちを出迎えます。それまでは、「だっしょ、だっしょ、おむかいっしょ!」と威勢よく叫びながら歩いてきたわけですが、帰り道は急に静かになり、「振り向くな!神様は醜い顔で、一つ目だ。見たら三年以内に死ぬぞ。女の神様だ。」と言い合いながら、板倉神社に戻ります。そして、神主が奥殿に神様を戻します。

それで終わりでなく、今度は神主だけ隣の町(さらに北の山深い集落)の松田神社に夜も更けたころ向かいます。この時、松田の人々は戸を閉めて家に閉じこもります。神様を見てはならないからです。この時、神主は神憑りになっているそうです。松田神社の氏子が一人、神主を迎え、神主は幣束を上げ、板倉に戻ります。

松田神社のご祭神も大国主の命です。もともと出雲にいるはずの神様が、出雲に戻って帰ってくる、それを迎える祭り、それも醜い顔で一つ目の女の神ーーーなんじゃこりゃー???と思いませんか?

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この神社の造は珍しいです。この建物のやや左に通路があります。

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これは、その通路の中です。鈴と大明神の額があります。この通路の中が拝殿なのでしょうか?奥に見えるのが本殿。

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本殿です。

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境内です。配神の社がいくつもありますが、中はみな空っぽ。ご神体どころか幣束もありません。廃社みたいな感じです。謎に包まれた板倉神社と松田神社のおかえり様。足利の図書館で民俗学の論文読んだり、私なりの推理をして考察してみました。(続く)



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# by araeshuzo | 2017-09-14 19:08 | 旅行記雑感