御馴染みの助さん格さんと一緒の黄門様の旅姿です。水戸駅前に銅像があり、水戸市はどこもかしこも黄門様。黄門様祭りというのもやっています。こちらは、黄門様の肖像画です。テレビの黄門様とは、イメージ違いますね。どこか憂いを秘めている感じがしませんか?絵の下の説明書きも読んでください。名目では水戸藩30万石(同じく御三家の尾張藩、紀州藩はそれぞれ50万石)は実質20万石の貧乏藩でまともな天守閣も建てられず、移封された前藩主佐竹氏が残した城門とかそのまま使ったそうです。若いころはグレテイタ黄門様ですが、史記を読んだのがきっかけで(一休さん、義経も子供の頃グレテイタそうです。)更生し、水戸の領民のために善政を行い豊かな水戸藩を作りました。
黄門様のことで特筆すべきは、歴史の大編纂事業を行い、水戸学の礎を築いたことです。歴史書に救われた黄門様ですから、歴史研究の重要性を痛感し、日本書紀以来正史が日本にないことを憂い、神話の時代からの歴史書を編纂することにしたのです。しっかりした正しい歴史を知らなければ国は滅ぶと。これ、現代の私たち身を抓まれますね。私を含め、戦後生まれの人たちは東京裁判史観に振り回されてきましたからね。幕末明治維新の勉強をしていると現代と重なる部分あり、考えさせられます。
歴史の編纂場所が「彰考館しょうこかん」です。水戸と江戸両方にあった時代もあります。中国では正史とは、滅ぼした王朝が自分を正当化するために書くそうですが、日本の場合、万世一系の王朝ですからその必要ありません。黄門様は多額の費用と労力を費やし、全国に研究員を派遣し資料を集め、助さん格さんとともに議論して事実を重んじて編纂しています。徳川全盛期、万々歳の時期にあって、幕府も顔をしかめるような迷惑なことも書いています。石田三成は忠臣だったとか、足利尊氏は逆賊で南朝が正統であるとか神功皇后は皇后であって、天皇ではないとか、大友皇子は一度即位したのだから歴代天皇として記すべきだとか、ずいぶん骨頂精神に富んだ勇気のある人だったようですね。
おじいさんの徳川家康が神君として全国の東照宮に祀られ、京都にいる天皇よりも尊ばれる時代にあって、「それは違う!将軍は飽くまでも天皇の臣下であって、尊王の精神こそ大義で、名分を正すべき。」というのが、黄門様の大日本史です。この編纂事業は黄門様の時代だけでは終わらず、明治39年まで続きました。歴代水戸藩主はそのためお金を使い、江戸屋敷や水戸城は質素というより、ボロだったそうです。
その血を引いた最後の将軍、慶喜。明治になってからも駿河で隠居生活をし、明治30年に参内を許され、明治天皇に「ご苦労だったね。お前が大人しくしていてくれて、日本は救われた。」と言われたそうです。 (続く)