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(337)この穴を見てください。(11)

さて、「この穴」に向かって話を進めましょう。

明治維新を引き起こし、日本の近代国家の礎を築いた水戸学は前期は黄門様により、中期は先に述べた藤田幽谷によります。いよいよ後期となりますと、幽谷の息子の東湖と弟子の会澤正志斎(1782-1863)という尊王攘夷の巨人が現れます。二人とも吉田松陰や西郷隆盛に大きな影響を与えたと言われます。

会澤正志斎は1824年に水戸藩の常陸大津浜にイギリス人が上陸すると尋問を行っております。幽谷が東湖に死を覚悟して夷狄を殺せと命じ、できずに東湖が悔やんだ事件です。正志斎は夷狄を尋問しているわけですから、間近に夷狄を見て、驚いたでしょうね。この頃の日本人は種子島などは例外として、難破して上陸したアメリカ人などを犬猫どころか禽獣扱いして檻の中に入れ、虐待などしたりしています。人間と思えなかったのでしょうね。

1825年にようやく徳川幕府は異国船打ち払い令を出す訳です。同じ年の1825年に正志斎は、尊王攘夷思想の聖典ともゆわれる「新論」を書き表しますが、内容があまりにも過激と第8代水戸藩主斉のぶ(なりのぶ)によって出版を禁止されます。まだ斉昭さんではありませんでした。出版されたのは1857年安政の大獄の頃です。しかし、それ以前筆写されて全国に伝播されています。世界中の軍事情勢など調べて、日本のあるべき姿を述べていますから外国船の脅威に慄く当時の日本人は、発禁本でも読みたかったのでしょうね。当時の人々の外国船への恐怖は、今の日本人の北朝鮮や中国への恐怖どころではありませんでした。守ってくれる同盟国なんて無かったのですから。侵略されれば、奴隷にされるのに幕府は夷狄と正面から向かい合わず、黒船来航(1853)までボーとしていました。

11代将軍家斉(1773-1841)の時代は、松平定信の寛政の改革などありましたが、失脚後、田沼の側近政治が復活、将軍をセックス漬けにして、側室100人、子供55人、そのため大奥の経費を賄うのに小判の改鋳(金の含有量を半分に)を行いました。その呆れた政策は、金融経済を発展させたともいわれますが、物価高を招き、幕府の腐敗政治・賄賂政治は財政窮乏を進ませました。また、天保の大飢饉・大塩平八郎の乱などが起こりました。色狂い将軍に腐敗役人。社会がこのようになってしまっては、「新論」のような発禁書だって読みたくなりますよね。正に、内憂外患の時代。内容は確かに過激ですが、会澤正志斎は、尊王攘夷思想の創始者であっても、以前敬幕でした。倒幕までは考えていませんでした。

「新論」、現代の人間が読んだらぎょっとしますね。キチガイではないかと?でも、これが新時代の国家構築理論で、日本人の真実ではないかと?

http://www.1-em.net/sampo/sinron/sinron/
こちらで、現代語訳読めます。

(続く)

by araeshuzo | 2017-12-05 20:23 | 歴史・哲学

両毛青少年国際交流クラブ・荒江学習塾で生きてきて、私がやっていること、言いたいこと

by araeshuzo
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