こちらは、ナポリの国立考古学博物館にあるあの有名な
大モザイク画、「アレクサンドロス大王の戦い」です。日本の歴史の教科書にも載っていますね。ポンペイの「牧神の家」の床を飾っていたもので,「踊る牧神の像」と共に発掘されました。
ローマ人はヘレニズム文化に憧れていましたから、東方の異民族の王と戦うマケドニアのアレクサンドロス大王のモザイク画を屋敷に作らせ、楽しんだのでしょう。なんせ、西アジアのガンダーラ(現在のパキスタン)まで征服し、インドにまで迫った大王ですからね。お陰で仏像ができて、日本にまで届きました。
こちらが、「踊る牧神の像」です。
東方の国の王ですね。
こちらは、モザイク画の欠けた部分を修正して描いた複製絵画です。激しい戦いの様子が、伺えますね。
こちらの絵画は、ルネッサンス期あるいはその後の時代に描かれたものと思われます。様式がバロック的ですね。何やら、戦争で勝利し、凱旋したときの様子を描いた絵画のようです。左下の縄で縛られた男をご覧ください。これは、イタリアだけでなくヨーロッパを知るうえで重要なポイントです。この男は、捕虜で奴隷にされたでしょう。
ガラスの容器に入った奇妙なもの、何だか前衛芸術にも見えますね。人と馬がくっつきあってる。これは、コロッセオの剣闘士競技と大いに関係しています。これは、異民族との戦闘場面を造形化したものでしょう。これが、古代ローマであり、イタリアなのです。こういうの日本にはないでしょ。
もともとは、剣闘士の試合は、儀式でした。戦争で死者の栄誉を称える儀式でした。捕虜の血を偉大な戦士の墓に注ぎ、捕虜の力を英雄に捧げ、復讐もする。しかし、捕虜同士を戦わせる方が、面白く、見世物にもなります。そして、勝ったものは、生き延びられる。このようにして、剣闘士競技は、故人となった偉大で、崇高なローマ人の遺徳を偲ぶ儀式からはじまりました。最初の剣闘士競技は、紀元前264年で、ブルートゥス・ペラという人の葬儀での追悼のために行われました。6人の奴隷が3回試合を行う規模でした。
しかし。次の文は「殺戮の世界史」という本からの引用です。
「ローマ人にとって、剣闘士の戦いは、市民生活には欠かせないものとなった。これは多すぎる戦争捕虜や犯罪者を処理しながら、流血や苦しみの光景にローマ人を慣れさせるという目的もあった。四方八方を敵に囲まれた戦士の民族であるローマ人は、若いころから、暴力死に慣れなくてはならない。剣闘士の試合は勇気と威厳をもって、死と向き合う方法を、見本によって教えていた。憎悪の対象となる奴隷、犯罪者、外国人が体をバラバラにされる姿を見ることで、自分がローマ人に生まれたことがいかにありがたいことかも胸に刻みこまれた。
(原典 Kyle , Spectacles of Death in Ancient Rome,p45) 」
これを読むと剣闘士の試合は教育でもあったのですね。今の日本には、縁が無いですが。
古代ローマ共和政の時代、剣闘士の試合は政治家の人気取り、つまり、選挙時に自分に投票してもらうために盛んになり、儀式から娯楽へと変化していきます。紀元前65年、あのジュリアス・シーザーは、1年間に320組の剣闘士を戦わせています。彼は、政治家、軍人として優秀だけでなく、大衆を喜ばせる名人でもあったようです。戦闘士に風変わりな武器を持たせたり、金メッキの鎧を着せたりして、正にエンターテイメント!!!あのローマの巨大な7万人収容のコロッセオは、こういう必要があって建設されたのですね。
さて、再び、フィレンツエに戻ります。共和国政庁舎だった建物(ヴェッキオ宮)の2階は、「500人広間」と呼ばれ、会議場でした。今は、コンサートなどが行われています。500年以上前の建物が今でも機能しているのですから、さすがはイタリアの建築物ですね。
こちらは、ステージに向かって、左側の大壁画、
こちらは、右側の大壁画。いずれも、戦闘場面です。西ローマ帝国が滅んだのち、カトリックに支配され、剣闘士試合は無くなりましたが、ドイツ、スペイン、フランスなどに侵略されます。戦争との因縁は深いようです。だから、議場にこういう大壁画を描かせて、議員はこれを見ながら政治を考えたのでしょう。
日本は、
名古屋城です。1612年に築かれた天守閣は、戦時中米軍の爆撃で焼けました。加藤清正の指導により、大阪城落城後の1620年まで建設は続いたそうです。尾張徳川61万石の城で、まだ、徳川幕藩体制が盤石でない時代、西方への大名に睨みを利かせるために築城されました。今の天守閣は、戦後コンクリートで再建され、中は博物館のようになってます。
近年、木造で本丸御殿が復元されました。
城の中の御殿て、珍しいですね。天守閣は残っていても、御殿があるのは他にないでしょう。
中に入ってみると、
出迎えるのは恐ろしい虎の絵です。玄関から入ってきた諸大名をここで、ビビらせたそうです。「ここに住んでいるのは、家康様の子じゃ。舐めんなヨ!食い殺すぞ!」と。
ですが、
さらに中に入ると、 優雅な襖絵。和みますね。
藩主と対面する間もこんな感じです。右の四角い欄の裏には、警護の侍が隠れていて、藩主に危害を加えようとしたら、すぐに飛び出してお守りするという具合だったそうです。すぐに形骸化したそうですから、天下も落ち着き。
大広間もこんな感じです。優美な絵ですね。
いかがですか?フィレンツエのヴェッキオ宮の500人広間の大壁画と比べて。日本には、大阪夏の陣や長篠の戦のような屏風絵はありますが、御殿の襖絵に戦さの絵を描くというのは聞いたことありませんね。これは、歴史の違い、精神性の違いでしょう。
(続く)