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(339)この穴を見てください。(13)

当時の老中は、あの寛政の改革の白河藩主松平定信でした。商業に重きをおいた賄賂政治の田沼意次の失脚の後、将軍家斉は疲弊した農村を立て直そうと改革のため、白河藩立て直しの実績のある若い定信を登用したのでした。この時はまだ色ボケしていなかったのでしょうね。

定信は、優れた人材を集めようと諸藩に能力のある者の推挙を求めました。改革の必要に迫られているとはいえ、幕藩体制と門閥制度(家名によって役職が決まっている)を多少揺るがしてでも実力のある者を取り立てざるを得なかったのでしょうね。この時代、下克上が再び復活してきたと考えても良いと思います。門閥制度・身分制度は、家康が下克上の無い安定した社会のために作り出したありがたいものだったのですが、時代の流れとともに何でも変化せざるを得ないのですね。

そこで、水戸藩は天才幽谷を推挙しました。定信は何か書いて見せよと命じ、そして提出したのが正名論です。読んで字のごとき名を正すですが、黄門様の考えを踏襲しての尊王賤覇思想です。要するに、徳で治める王道の天皇は尊いが、武力で天下を治めている覇道の将軍は賤しいというものです。天皇が第一で将軍は第二である。従って、「お慎みなされ!」ということを面前で言ってしまったのです。これは、総理大臣に「でかい顔するな!」と18歳の若造が言ってしまったのと同じです。

定信にしてみれば、いくら優れた若者とはいえ、18歳の若造にこう言われては面白くありません。結果は不採用。幽谷にしてみれば、俺は何も間違ったこと言ってない、俺には天皇がついているから怖くないくらいでしかありませんでした。天下のご政道の中枢を担い、禄高もぐっと上がる機会を逃して、平然としているのでした。明治維新への近代革命はここに始まったと指摘する人もいます。これは的を得ているかもしれません。徳川家康を神君と崇め、幕府絶対の時代に、なんと御三家の水戸家臣(古着屋の倅上がり)が将軍を貶めることを言ってしまったのですから。

歴史を作ってきた人たちって、非凡ですね。て言うか変人?西郷隆盛も若いころ、藩主斉彬に「あんた、バカだ!」と言って、逆鱗に触れ、島流しに遭ったそうです。吉田松陰は黒船に乗り込みましたが、渡米の許可をペリーからもらえず、自ら伝馬町の牢屋に入ったそうです。

幽谷の非凡な行動はまだまだ続きます。不器用な人だったのですかねぇ?

(続く)



by araeshuzo | 2017-12-14 00:23 | 歴史・哲学

両毛青少年国際交流クラブ・荒江学習塾で生きてきて、私がやっていること、言いたいこと

by araeshuzo
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