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(360) 韓国日本世界遺産古墳巡りの旅 (扶余ふよ・プヨ郡編)

公州市から市外バスで1時間のところに百済第三の都、扶余があります。韓国の西部に位置します。百済時代は泗沘(しび・サビ)と呼ばれました。

百済の始祖は朱蒙でなんと高句麗の始祖でもあります。朱蒙は、韓ドラにもなっていますね。この方も卵から生まれたという伝説があります。東明王と呼ばれ紀元前37年から前19年の王様です。あの広開土王(好太王)はその後の19代の王で、紀元後391から412年の王様です。日本で生まれ育った東城王(後479年から501年)は、朱蒙から数えて24代の百済の王で、武寧王(501-523)は、25代の百済の王です。そのあとの26代聖王(523-554)の時、公州(熊津)から扶余(泗沘・サビ)に(538年)遷都しました。積極的外交政策を行い、中央集権的国家体制を整えるためだったとのことです。高句麗、新羅、唐、加羅に囲まれ大変だったのでしょうね。

しかし、31代の義慈王(641-661)の時、新羅と連合した唐によって660年に滅ぼされます。あの有名な白村江は、扶余を流れる白馬江(錦江)の河口にあたります。663年の日本軍27000人を動員した白村江の戦いは、百済復興軍(韓国では後百済)の要請によるものです。170艭余りの唐の水軍と2日間対戦しましたが、敗れました(天智天皇3年)この後、百済から難民、亡命者が大挙して日本に押し寄せたそうです。関西地方には「百済」という地名がやたらと多く、渡来人が多く住み着いた名残をとどめています。

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扶余郡のロータリーにある聖王の銅像です。交通事情で近づいて撮れませんでした。おわかりでしょうか?扶余郡は百済の最後の都だったとは言え、今は人口70000人の小さな町です。公州は11万人ですから半分ですね。

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公州(熊津)は、熊の塑像が電柱にありましたが、扶余(泗沘・サビ)では、朱雀です。ゆるキャラは見当たりませんでした。

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百済世界遺産の一部である扶蘇山城(プソサンソン)に行く途中で見つけました。空地の一角になんと練炭殻が捨てられていました。韓国では、こういうごみ投棄は珍しくありません。練炭は50年前、日本でもよく使われていましたが、

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韓国では、今でも地方のレストランでは、こういう練炭ストーブを使っています。エアコンあるんですけど、冷房のためにのみ使っているのでしょうかね?

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こういった貧しい家も珍しくありません。立派な国立博物館が地方都市にどんどんできる一方、リアカーで段ボール箱を集めているおばさん、おばあさんをしばしば目にし、格差を感じました。

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扶蘇山城入り口の前にあったパンクした荷車。何に使うのか?

(続く)







by araeshuzo | 2018-06-09 02:36 | 旅行記雑感

両毛青少年国際交流クラブ・荒江学習塾で生きてきて、私がやっていること、言いたいこと

by araeshuzo
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