カテゴリ:歴史・哲学( 24 )

韓国日本世界遺産古墳巡り旅行にいってまして、執筆できませんでした。「この穴をご覧ください。」シリーズは終了したわけでありません。一旦中断し、旅行の記憶が薄がらないうちに、次回(351)から韓国日本世界遺産古墳巡りの記事を書きます。
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by araeshuzo | 2018-05-22 15:10 | 歴史・哲学

渡辺崋山は、8歳の頃藩主世子(世継)のお伽役をし、勉強相手、遊び相手を務めていました。江戸の藩邸の長屋で崋山は生まれ、生涯江戸詰めの方が多かったと思われます。12歳の折、日本橋あたりで同じ年の世子のお供をしているとき、殴られたそうです。身分が違うといえども、同じ年の子供に殴られて文句も喧嘩もできない悔しさ。しかし、いじけず発奮し、武士として出世できぬとも、学者か画家として出世することを志したのでした。

苦難は続きました。父親が病気となり看病、下に弟や妹たちもおり、赤貧洗うがごとく、母親は布団で寝られず、ボロ畳の上で寝、武士といえども弟たちは奉公に出される有様でした。父親は年寄り役末席(家老)でしたが、この困窮ぶりです。崋山は22歳の時に納戸役(物置部屋の管理)を命ぜられますが、5両二人扶持。この当時の1両は今の6〜7万円ですから、これで1年間暮らせとは無茶な話です。翌年は、刀番兼務、供頭(お供をする者の取締役)になりますが、内職をしなければ生きていけませんでした。行燈の紙に絵を描いて、一枚十文で売るのです。昼は公務、夜は遅くまで内職という生活でした。藩そのものが貧乏だったようです。借財をたくさん抱え、藩主が亡くなると、血のつながりのある藩主の弟を次の藩主にするのでなく、持参金目当てで姫路藩から養子を迎えて藩主に据えた程です。崋山は武士として、ますますやる気が無くなっちゃうわけです。この当時、日本全国、こうした困窮した侍はたくさんいたでしょうね。

では、崋山はその後どのようにして、後世に名画を残し、思想家として名を馳せ、最後に切腹したのでしょうか?

(続く)

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by araeshuzo | 2018-02-24 10:10 | 歴史・哲学

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渡辺崋山の肖像画です。渡辺崋山といえば、蘭学者、洋学者というより南画家としてのイメージ強いですね。芸術家、武人双方の才能あり活躍したようです。私の生まれ育った足利にも来ており、老舗の料亭「巖華園がんかえん」の名前も崋山がつけたことで有名になっております。

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三河の国田原藩の家老の家といえども、貧しく、画業で生計を賄おうと絵画を学んだそうですが、「芸は身を助すく」、こちらの鷹見泉石像は国宝になっております。洋学者らしく西洋の遠近法も用いているらしいです。鷹見泉石(たかみ・せんせき)は、下総古河藩の家老で崋山とは、蘭学を通じて交流があったそうです。学問仲間。

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見事ですね!魚たちを上から見たり、下から見たり、それを一枚の2次元的空間に収めています。平安時代から幕末明治までの伝統的日本の絵画手法、特に画鬼と呼ばれた河鍋暁斎を感じさせますね。こういうの西洋画にないですよ。ゴッホが見ていたら、飾北斎よりも崋山に影響されていたかもしれません。

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まるで、伊藤若冲の世界です。これが日本画、日本人の心、日本人の自然と共にある世界です。海防掛けという夷狄から日本を守る役職に身を置き、水戸学と同じ志を持ちながらも、攘夷とは異なった開明派に視点を置きながら日本画を創作していたのですね。攘夷思想とは異なり、門戸を海外に開き、外国から優れたものを学ぶという考えです。

今年は、明治維新から150年。そのせいか明治維新についての本がいろいろ出ていますね。中には奇をてらって売り出そうと怪しげなものもあります。こんな時だからこそ、幕末から維新にかけての歴史をしっかり見つめ、日本の新たな未来を考え、後世に伝えなければならないと思います。

私は未来を築くのに役立つ史観(未来史観)を目指します。

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よくある日本画のタイプです。最初は、儒学を学んだそうですから、中国画風のものも描いたのでしょう。しかし、時代というか、思想家としては、立場、主張違えど藤田幽谷や荻生徂徠と同じようなことも考えていました。脱朱子学。今の私たちも考えなければならないことです。

このページの写真はすべて、ペリカン社刊 日比野秀男氏著「渡辺崋山・秘められた海防思想」から引用させていただきました。

(続く)



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by araeshuzo | 2018-02-16 01:07 | 歴史・哲学

水戸学は、明治維新の中核的思想ですが、明治維新への道に至るにはこれだけではなかったようです。いろんなベクトルが働いていて、それが一本のベクトルに収斂したのが明治維新なのではないかと思います。これこそが日本の素晴らしいところで、欧米の植民地にされてしまった他の国々と違うところです。でも、いろいろな人々の血が流されています。

「この穴」に向かう前に、ちょっと別のベクトルを見てみましょう。

以前、申し上げましたように、18世紀終わりごろから、日本近海には外国船が頻繁に姿を現します。軍艦ばかりでなく、商船、捕鯨船などです。1808年のフェートン号事件(長崎にオランダ船を装い、イギリスの軍艦フェートン号が水、薪、食料などを強奪、長崎奉行は責めを負うて切腹)、1837年のモリソン号事件(この時は、異国船打ち払い令により追い払う。相手はアメリカの商船でしたが、これがきっかけで別のベクトルを唱える学者が出てきました)、そして、1824年の大津海岸事件です。

なんと、尊王攘夷の宗家である常陸の国水戸藩の大津海岸にイギリス船が上陸してしまったのです。藤田幽谷は、一人息子の東湖と弟子の会澤正志斎を差し向けようとしました。「何もせず夷狄を放免することあらば、宿舎に乗り込んで皆殺しにせよ。東湖が死んで、家が途絶えてもこれは大義滅親であるから、かまわん。」と命じました。東湖19歳、死を覚悟してのことです。しかし、幕府からの代官が水、薪、食料を与えてもう放免してしまったという飛脚からの知らせを聞き、親子ともども憤慨するのでした。テロリスト父子です。この翌年、1825年に異国船打ち払い令が出されます。翌年、1826年に幽谷は病で亡くなります。

ほぼ同時代、別のベクトルを考える人たち、渡辺崋山、高野長英、佐久間象山がいました。渡辺崋山(1793-1841)は、三河の国(愛知県)の田原藩(12000石の小藩)の藩士の子供として、江戸藩邸で生まれました。最初は儒学を学びましたが、幼少から貧困に苦しみ、家計を助けるために絵も学んだそうです。1824年、父の死により家督を継ぎ、1832年に年寄り役末席(家老)となります。頭よかったんでしょうね。幕末に活躍した人たち、NHK大河ドラマの「西郷どん」に出てくる西郷隆盛始め、大久保利通、吉田松陰、佐久間象山等々、武士であっても食うや食わずの生活しています。そして、強い信念を持っていますね、いや、魂を。貧乏でいじけた人たちではないですね。


(続く)



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by araeshuzo | 2018-02-07 20:31 | 歴史・哲学

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この諷刺画は、明治時代に日本に憧れてやってきたフランス人、Georgre Bigotが書いたものかもしれません。内憂外患。水戸の歴史博物館で私が撮りました。欧米列強や中国に狙われ、日本の百姓からは槍を突き付けられている侍。この状況は、18世紀後半からの外国船到来から始まっているようです。藤田幽谷は水戸学中期の人で、晩年には、人材育成のために私塾青藍舎を設けて息子の藤田東湖や門弟の会澤正志斎、豊田天功などを育てました。これらの人々は、後期水戸学の確立者で明治維新の精神的核となった人たちです。当然、強烈な尊王攘夷思想確立者です。

しかし、内憂外患の時代にあって、明治への別の流れを作った人たちもいるようです。画家として知られる渡辺崋山や蘭学医の高野長英です。

(続く)

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by araeshuzo | 2018-01-30 18:10 | 歴史・哲学

翠軒は、幽谷の恩師ですが、「大義滅親・天皇の大義の前には親兄弟を顧みない」の精神の持ち主ですから、大義のためなら師弟関係も犠牲にする。私を捨てて、公に就く(吉田松陰も「公」を説いています、これが日本が欧米の植民地にならなかった大きな理由だと思います。正に、武士の魂!)と、幽谷は「修史始末・大日本史編纂に関する意見書」を著し、翠軒に提示します。すると、翠軒は、「駄目だよ。お前はまだ青い。こんなこと言ったって世の中通らないよ。」と言って、抑えようとしました。

そこで、幽谷は、下級武士であるにも関わらず、藩主に意見書を出します。罪に問われるのを顧みず、またずけずけと物を言ったのです。綱紀粛正、士風更新、藩政刷新、庶民階級救済、国防、経済政策の確立も並べ立てました。藩主は怒り、江戸から水戸に左遷されます。翠軒は幽谷を破門します。ぼろくそ言って。幽谷24歳、翠軒54歳でした。

幽谷は、水戸に帰国して謹慎生活を3年送ります。この間に『勧農或問・農業奨励書』を書きました。その後、許されて、また彰考館に戻るのですが、総裁はまだ、翠軒で彰考館を廃止しようと言ってます。彰考館内部は立原派と藤田派に分かれての抗争となりました。

結局、6代藩主治保はるもりは、幽谷の説を採り、翠軒は60歳にして彰考館を去り、彰考館は、幽谷一派がしむるところとなりました。見事な返り咲きですね。ですが、翠軒は7代藩主から家康の事績編纂を命じられ、自分の弟子たちを集め、幽谷の敵対勢力を温存していきます。この派閥は後に藤田派は勤皇党、立原派は佐幕党となり、「この穴」を起こします。

長州でも薩摩でも内部抗争ありました。人間て、いつの時代でもこんなもんでしょうけど、水戸の場合、なにもそこまでというのがあります。明治政府に水戸藩出身者がいない理由です。

(続く)

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by araeshuzo | 2018-01-22 22:05 | 歴史・哲学

荻生徂來(1666-1728)は、ガッチガチのシナ崇拝の朱子学者だったのですが、ある時から、朱子学の観念性・イデオロギー性に疑問を持ち、批判しだします。そして、人々の暮らし、生活に役立つ実学(当時は、読み書きそろばん)を重んじるようになります。そりゃそうでしょ!朱子学はシナの南宋の思想家朱熹(1130-1200)が唱えたもので、日本には鎌倉時代に禅僧によって伝えられました。施政者は徳を積めば理想的な政治が行えるというもので、自身の道徳的向上を求めるものです。鎌倉末期や戦国時代には必要な儒学的思想だったでしょうが、徳川幕府中期から500年も前のシナの思想です。そんなものにしがみついている日本人の方がおかしいです。

明治という日本の近代化を考える上で、江戸時代の実学への移行を留意しなければなりません。経済、農業、本草学(動植物学)、天文学、暦学、医学などの経験的・実証学的学問です。幕末には洋学とともに盛んになりました。福沢諭吉は十代の頃、白石照山から儒学を学びましたが、後に儒学を虚学とし、「学問のすすめ」の中で実学の重要性を説いています。

話を幽谷と翠軒の対立の話に戻しますが、この時代、歴史書も実学的編纂が必要だったのでしょう。まして、黄門様が本紀・列伝だけでなく、志・表も編纂しなければならぬとの遺言まで残していたのですから。志・表の完成は明治末期です。黄門様の遺言とその意図は凄いですね。水戸藩士は苦労したでしょうけど。

(続く)

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by araeshuzo | 2018-01-17 19:23 | 歴史・哲学

大日本史は、大きく分けると本紀・列伝と志・表に分けられます。本紀は天皇の事績を記したもの、列伝は家来たちの伝記です。つまり、個人の業績を綴ったもので、道徳を重んじる儒教的思想に則っています。本紀・列伝は黄門様の死後16年後に完成し、光格天皇(1780-1817)に献納され、喜びの勅語を賜ったそうです。志・表は制度史で、6代水戸藩主治保(はるもり)公がしばらく途絶えていた大日本史編纂事業を復活させようと彰考館に命じた研究テーマでした。

志は祭祀関係の神祇志や氏族志、職官志、国郡志、食貨志などです。この「志」は歴史という意味ですね。三国志・魏志倭人伝などの。表は臣連(おみむらじ)や造(みやっこ)、検非違使などを務めた人たちの一覧表です。どちらも歴史の細かいことがらで、資料収集に手間とお金がかかります。水戸藩士にすれば面倒なものですよね。しかし、志・表は法制史、経済史、軍事史、宗教史に相当する研究ですから、それまでの道徳や忠義といった観念で歴史を見ようとする儒学に基づく歴史書とは全く異なった近代的な歴史研究ということになります。つまり、それまでと違った画期的な歴史書になるわけです。江戸前期の思想は、中国の朱子学にガッチガチに侵食されていましたが、中期になると伊藤仁斎や荻生徂徠などの朱子学者が自ら朱子学に疑問を持ち、制度史に目を向けだします。それは、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤へと続く国学に繋がりました。日本独自のお国柄・国体観念の誕生です。

(続く)

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by araeshuzo | 2018-01-15 19:17 | 歴史・哲学

さて、話を翠軒と幽谷の対立に戻しましょう。実は、この二人の対立が「この穴」の大本、元凶となったのです。

二人の対立点はいくつかありますが、最も深刻なのがなんと彰考館総裁である翠軒がお金がかかるし、面倒だから大日本史編纂の志・表は止めて、彰考館は閉じてしまおうと言い出したことです。前にも言いましたが、御三家と言っても水戸藩は貧乏な藩でした。江戸詰めはウナギが食えるが、水戸詰めは食えないというくらいでした。給料の半分踏み倒しなんてことも起こりました。黄門様が歴史を正さなければ国は滅びてしまうと、始めた大日本史編纂事業ですが、この時代になると藩士のなかにも武士の魂が無くなり、生活のことばかり考える藩士が出てきたのでしょうね。

翠軒は大勢順応主義で、長いものには巻かれろで、新しい時代を切り開く思想家ではなかったようです。多くの藩士たちが、大日本史編纂なんて何になるんだ、俺たちにもっといいもの食わせろといえばそれに巻かれていく日教組的な校長だったのでしょうね。戦後の日本の歴史もずいぶん歪められてきました。従軍慰安婦問題、南京事件、−−−ほっとけば、日本人は汚辱にまみれて未来は無くなるでしょうに!

(続く)

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by araeshuzo | 2018-01-14 19:15 | 歴史・哲学

「義を見てせざるは勇無きなり」、といいますが、幽谷は義を見て見ぬふりなど、絶対にできない人だったのでしょうね。立原翠軒は大勢順応主義かつ事なかれ主義の師匠でした。彰考館の総裁でありながら水戸学の創始者である黄門様の思想とかはどうでもよく、周りの藩士たちの顔色を窺い、問題が起こらぬようにと気を回すタイプの校長先生だったようです。今でもこういう校長先生たくさんいますね。問題が起こらぬよう新しいこととか全くやりたがらない。生徒のことより自分の保身が第一。教育委員会もそうですから、教育改革など進みませんね。従って、沈滞し優れた人材は育たない。18世紀の江戸時代って、多くの藩が財政難に陥り商人から借りた金を踏み倒したり、侍も僧侶も道徳的に廃れていたようです。今の日本に似ていませんか?政府も地方自治体も赤字財政。お金の製造元である日銀が政府の赤字国債を買い取る。これっておかしくありませんか?一種の借金踏み倒し?ではないかと?文部科学省事務次官がデートクラブに通ってもマスコミは批判せず、「忖度、忖度」とバカな野党と熱血首相の足をすくうことにご執心。

江戸時代は初期を除いて戦乱の無い平和な時代でしたが、200年も経つと社会の様々な面で老朽化が出てきたようです。19世紀になると、賢い藩主は財政の再建や道徳の立て直しのために藩校作ったりしています。先ずは人材の育成ですからね。会津藩の日新館などそのいい例でしょう。

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会津若松市郊外に復元された会津藩校日新館の孔子を祀った大成殿

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大成殿内部 中国から取り寄せたものが多いようです。

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水泳を学ぶためのプールと校舎

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どこの藩校でも先ずは儒学でした。

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この「ならぬものはならぬ。」というのが会津魂を作ったそうです。今でも会津市では、この掟を簡略化して、「会津っ子宣言」として町ぐるみで子供たちに教えているそうです。いいですね!!この掟は日本全国の子供に普及させるべきですね。そしたら、子供のいじめや自殺もへるのではないでしょうか?戦後、道徳教育が無くなりましたから。文明史的に見ても、道徳が廃れると国は滅びていますね、蛮族の侵入や内乱などにより。どうしても精神弱くなりますから。

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儒学だけでなくいろいろな学問を教えてたそうです。武術の教練場もありました。

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教室の様子です。先生と生徒の人形です。

この復元された日新館は、なんと民間の会社によって作られ、運営されています。1798年に家老の進言により日新館は5年かけて作られました。資金はなんと呉服商の寄付金だったそうです。教育の無償化のために財界が金を出す今と似ていますね。

(続く)


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by araeshuzo | 2017-12-25 19:08 | 歴史・哲学