「義を見てせざるは勇無きなり」、といいますが、幽谷は義を見て見ぬふりなど、絶対にできない人だったのでしょうね。立原翠軒は大勢順応主義かつ事なかれ主義の師匠でした。彰考館の総裁でありながら水戸学の創始者である黄門様の思想とかはどうでもよく、周りの藩士たちの顔色を窺い、問題が起こらぬようにと気を回すタイプの校長先生だったようです。今でもこういう校長先生たくさんいますね。問題が起こらぬよう新しいこととか全くやりたがらない。生徒のことより自分の保身が第一。教育委員会もそうですから、教育改革など進みませんね。従って、沈滞し優れた人材は育たない。18世紀の江戸時代って、多くの藩が財政難に陥り商人から借りた金を踏み倒したり、侍も僧侶も道徳的に廃れていたようです。今の日本に似ていませんか?政府も地方自治体も赤字財政。お金の製造元である日銀が政府の赤字国債を買い取る。これっておかしくありませんか?一種の借金踏み倒し?ではないかと?文部科学省事務次官がデートクラブに通ってもマスコミは批判せず、「忖度、忖度」とバカな野党と熱血首相の足をすくうことにご執心。

江戸時代は初期を除いて戦乱の無い平和な時代でしたが、200年も経つと社会の様々な面で老朽化が出てきたようです。19世紀になると、賢い藩主は財政の再建や道徳の立て直しのために藩校作ったりしています。先ずは人材の育成ですからね。会津藩の日新館などそのいい例でしょう。

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会津若松市郊外に復元された会津藩校日新館の孔子を祀った大成殿

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大成殿内部 中国から取り寄せたものが多いようです。

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水泳を学ぶためのプールと校舎

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どこの藩校でも先ずは儒学でした。

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この「ならぬものはならぬ。」というのが会津魂を作ったそうです。今でも会津市では、この掟を簡略化して、「会津っ子宣言」として町ぐるみで子供たちに教えているそうです。いいですね!!この掟は日本全国の子供に普及させるべきですね。そしたら、子供のいじめや自殺もへるのではないでしょうか?戦後、道徳教育が無くなりましたから。文明史的に見ても、道徳が廃れると国は滅びていますね、蛮族の侵入や内乱などにより。どうしても精神弱くなりますから。

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儒学だけでなくいろいろな学問を教えてたそうです。武術の教練場もありました。

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教室の様子です。先生と生徒の人形です。

この復元された日新館は、なんと民間の会社によって作られ、運営されています。1798年に家老の進言により日新館は5年かけて作られました。資金はなんと呉服商の寄付金だったそうです。教育の無償化のために財界が金を出す今と似ていますね。

(続く)


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by araeshuzo | 2017-12-25 19:08 | 歴史・哲学

水戸学の巨人、そして多くの尊王攘夷の志士に影響を与えた藤田東湖の父である藤田幽谷の話をもう少し致します。そうでないと、東湖神社に祀られている意味を分からないでしょう。

幽谷が幕府の老中首座松平定信に「でかい顔するな!」発言を18歳の若さでしたことは、申し上げました。そして、幕臣への栄達への道を捨ててしまいます。普通に考えればバカなことですね。しかし、この時代の思想の変化と社会の変化と幽谷の天才で強い信念を持つ頑健・苛烈な性格を考えると分かる気がします。

江戸時代の学問は朱子学でした。イデオロギー色が強く、自分を道徳的向上にのみ向ける傾向がありました。思想は時代の変化とともに変わるものです。日本の儒学も道徳重視から制度重視へ転換する時期にあったのでしょう。定信とのことがあったのは、1790年頃のことです。外国船が日本近海に現れ、まだ、異国船打ち払い令も出ていない頃です。幽谷は伊藤仁斎や荻生徂徠の古学派に属していましたが、陽明学も深く学び、歴史を重んじ現実と調和させて精神と物質両方を生活の中で調和させる折衷学に進んでいきました。要は、頭の中だけで考えているのでなく、現実に目を向けるリアリスト。これは、橋本佐内のように幕末の儒学者の実学への転換、福沢諭吉のように儒学という虚学を捨て、洋学という実学を奨励する流れの源流となったのかもしれません。ともかく、明治維新・日本の近代化のルーツは幽谷に見て取れます。

社会的には、町人階級の台頭と彼らの自我の目覚めだと思います。江戸時代になると町人文化が栄え、経済も発展しました。一人で大名以上の金を持つ商人がぞろぞろ出てくるわけです。高田屋嘉兵衛(かへえ)の話など有名ですね。廻船業で巨万の富を築きました。商人が農民を支配する地域もでてきます。商人から金を借りる大名や旗本、武士。武士は食わねど高楊枝。特に水戸の侍は貧乏だったそうです。こうなると、勉学もしない、中身がない、太平の世で武芸もしない。形だけの支配者・武士は、バカにされても仕方のない時代に突入しつつあったのかもしれません。幽谷は古着屋の倅と言っても独立して個人としてのプライドをしっかり持っていたのでしょう。この時代の町民はヨーロッパの市民階級、ブルジョワと比較していいでしょう。

1797年、幽谷は25歳の時、彰考館総裁であり師匠である立原翠軒と大日本史編纂を巡って大衝突を起こします。

(続く)

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by araeshuzo | 2017-12-19 09:46 | 歴史・哲学

当時の老中は、あの寛政の改革の白河藩主松平定信でした。商業に重きをおいた賄賂政治の田沼意次の失脚の後、将軍家斉は疲弊した農村を立て直そうと改革のため、白河藩立て直しの実績のある若い定信を登用したのでした。この時はまだ色ボケしていなかったのでしょうね。

定信は、優れた人材を集めようと諸藩に能力のある者の推挙を求めました。改革の必要に迫られているとはいえ、幕藩体制と門閥制度(家名によって役職が決まっている)を多少揺るがしてでも実力のある者を取り立てざるを得なかったのでしょうね。この時代、下克上が再び復活してきたと考えても良いと思います。門閥制度・身分制度は、家康が下克上の無い安定した社会のために作り出したありがたいものだったのですが、時代の流れとともに何でも変化せざるを得ないのですね。

そこで、水戸藩は天才幽谷を推挙しました。定信は何か書いて見せよと命じ、そして提出したのが正名論です。読んで字のごとき名を正すですが、黄門様の考えを踏襲しての尊王賤覇思想です。要するに、徳で治める王道の天皇は尊いが、武力で天下を治めている覇道の将軍は賤しいというものです。天皇が第一で将軍は第二である。従って、「お慎みなされ!」ということを面前で言ってしまったのです。これは、総理大臣に「でかい顔するな!」と18歳の若造が言ってしまったのと同じです。

定信にしてみれば、いくら優れた若者とはいえ、18歳の若造にこう言われては面白くありません。結果は不採用。幽谷にしてみれば、俺は何も間違ったこと言ってない、俺には天皇がついているから怖くないくらいでしかありませんでした。天下のご政道の中枢を担い、禄高もぐっと上がる機会を逃して、平然としているのでした。明治維新への近代革命はここに始まったと指摘する人もいます。これは的を得ているかもしれません。徳川家康を神君と崇め、幕府絶対の時代に、なんと御三家の水戸家臣(古着屋の倅上がり)が将軍を貶めることを言ってしまったのですから。

歴史を作ってきた人たちって、非凡ですね。て言うか変人?西郷隆盛も若いころ、藩主斉彬に「あんた、バカだ!」と言って、逆鱗に触れ、島流しに遭ったそうです。吉田松陰は黒船に乗り込みましたが、渡米の許可をペリーからもらえず、自ら伝馬町の牢屋に入ったそうです。

幽谷の非凡な行動はまだまだ続きます。不器用な人だったのですかねぇ?

(続く)



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by araeshuzo | 2017-12-14 00:23 | 歴史・哲学

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もう一人の尊王攘夷思想の巨人、藤田東湖(1806-1855)を祀った東湖神社です。黄門様と斉昭さんを祀った常磐神社の参道脇にあります。ここはいわゆる水戸学の聖地ですね。

藤田東湖は、藤田幽谷(1774-1826)の息子です。会澤正志斎とは兄弟弟子ということになります。この親子の性格はそっくりなようで、幽谷の孫の天狗党の乱の小四郎(1842-1865・東湖の4男)にまで引き継がれたようです。幽谷から小四郎までの3代に亘る尊王攘夷思想は、幽谷の苛烈な性格の流れとともにあったようですね。以前にも申し上げましたが、幽谷は水戸の古着屋の倅です。学問は父親や様々な儒学の先生に教わったそうです。10歳で四書五経を読み始め、数か月で読み方を卒業、11歳で詩を作り、13歳で大人を凌ぐ漢文を作りました。その天才ぶりに驚いた青木という儒学の先生は、当時水戸学のトップで彰考館長であった立原翠軒(1744-1823)に彼を入門させました。第6代水戸藩主徳川治保(はるもり){水戸学中興の祖}は、まだ15歳であった幽谷を彰考館の正式メンバーにします。そして、18歳であの正名論を書き、幕府家臣に取り立ての話まででるのですが、なんとー
(続く)

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by araeshuzo | 2017-12-12 20:01 | 歴史・哲学

さて、「この穴」に向かって話を進めましょう。

明治維新を引き起こし、日本の近代国家の礎を築いた水戸学は前期は黄門様により、中期は先に述べた藤田幽谷によります。いよいよ後期となりますと、幽谷の息子の東湖と弟子の会澤正志斎(1782-1863)という尊王攘夷の巨人が現れます。二人とも吉田松陰や西郷隆盛に大きな影響を与えたと言われます。

会澤正志斎は1824年に水戸藩の常陸大津浜にイギリス人が上陸すると尋問を行っております。幽谷が東湖に死を覚悟して夷狄を殺せと命じ、できずに東湖が悔やんだ事件です。正志斎は夷狄を尋問しているわけですから、間近に夷狄を見て、驚いたでしょうね。この頃の日本人は種子島などは例外として、難破して上陸したアメリカ人などを犬猫どころか禽獣扱いして檻の中に入れ、虐待などしたりしています。人間と思えなかったのでしょうね。

1825年にようやく徳川幕府は異国船打ち払い令を出す訳です。同じ年の1825年に正志斎は、尊王攘夷思想の聖典ともゆわれる「新論」を書き表しますが、内容があまりにも過激と第8代水戸藩主斉のぶ(なりのぶ)によって出版を禁止されます。まだ斉昭さんではありませんでした。出版されたのは1857年安政の大獄の頃です。しかし、それ以前筆写されて全国に伝播されています。世界中の軍事情勢など調べて、日本のあるべき姿を述べていますから外国船の脅威に慄く当時の日本人は、発禁本でも読みたかったのでしょうね。当時の人々の外国船への恐怖は、今の日本人の北朝鮮や中国への恐怖どころではありませんでした。守ってくれる同盟国なんて無かったのですから。侵略されれば、奴隷にされるのに幕府は夷狄と正面から向かい合わず、黒船来航(1853)までボーとしていました。

11代将軍家斉(1773-1841)の時代は、松平定信の寛政の改革などありましたが、失脚後、田沼の側近政治が復活、将軍をセックス漬けにして、側室100人、子供55人、そのため大奥の経費を賄うのに小判の改鋳(金の含有量を半分に)を行いました。その呆れた政策は、金融経済を発展させたともいわれますが、物価高を招き、幕府の腐敗政治・賄賂政治は財政窮乏を進ませました。また、天保の大飢饉・大塩平八郎の乱などが起こりました。色狂い将軍に腐敗役人。社会がこのようになってしまっては、「新論」のような発禁書だって読みたくなりますよね。正に、内憂外患の時代。内容は確かに過激ですが、会澤正志斎は、尊王攘夷思想の創始者であっても、以前敬幕でした。倒幕までは考えていませんでした。

「新論」、現代の人間が読んだらぎょっとしますね。キチガイではないかと?でも、これが新時代の国家構築理論で、日本人の真実ではないかと?

http://www.1-em.net/sampo/sinron/sinron/
こちらで、現代語訳読めます。

(続く)

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by araeshuzo | 2017-12-05 20:23 | 歴史・哲学

さて、斉昭さん、庶民と楽しめる庭園をということで、弘道館と同じ年の1841年に偕楽園を作りました。日本で最初の公園ということですね。何やら庶民のことも考えてとは、西山荘で隠居暮らしをした黄門様と似ていますね。

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日本の伝統的な枯山水庭園と違って、こういった風景を楽しむ庭園だったそうです。

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偕楽園内に好文亭という建物も建て、

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文化的空間も楽しめるようにしたようです。年老いた家臣の労をねぎらう特別な部屋もあり、

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こういったリフトも作って、料理を下の階から上の階に楽に運べるようにも工夫しています。

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こちらは、トイレ。食ったり飲んだりしたら、用を足したくなりますからね。

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こちらは、好文亭の外観です。これも大変な文化財です。

これ程までに民百姓のことを考え、藩政を立て直し、日本の未来のことを考えた斉昭さんを待っていた末路が「この穴」だったとは!徳川家康は戦乱の時代を終わらせ、260年続く太平の世の中をもたらしました。これは凄いことです。ですが、諸行無常、同じ状態がずっと続くことは地球が自転公転している限りありません。この時代は平和ボケのつけが回ってきた時なのかもしれません。だからこそ、この時代を学びよく考える今なのでしょう。
(続く)

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by araeshuzo | 2017-12-03 18:09 | 歴史・哲学